写真の現代史の振り返り。
昔(1960年代まで=ここでは「フィルム前期」と呼ぶことにします)はカメラもフィルムも高価でした。だからむやみやたらに撮るのではなくシーンを選んで撮影していました。フィルム1本で撮影できる枚数ももちろん限られていました。今から考えるととても不便です。
当然ですがフィルムは撮影しただけでは見ることが出来ません。プリントしないと何を撮ったのか見ることが出来ない。でもプリントもお金がかかるので、フィルム前期は撮ったもの全てをプリントするのではなく、現像したネガもしくはベタ焼きから選んでプリントしていました。こちらも、今から考えるととても不便です。
つまりフィルム前期においては、金銭的制約と物理的制約から撮影する時も撮影した後もユーザーは選ばざるを得なかった。撮る過程とプリントにする過程で「写真を選択」していたわけです。2回の選択を経て出来上がったプリントはある意味少数精鋭。これまた物理的制約のあるアルバムにきちんと納められることになります。
制約からくる不便さが、図らずも「家族や子孫に写真を残す」という便益に繋がっていたわけです。
ビジネスの世界では不便は悪で改善すべきこと。「不便のままがいい」なんて言えば変人扱いです。でも実際には「不便だからこそ益が生まれる」ということがあるわけです。
京都先端科学大学の川上浩司教授はこういう現象を「不便益」と呼んで研究されています。
http://fuben-eki.jp/
昔は不便だったから、写真をちゃんと整理して残すことが出来た
これが私の仮説です。
次回以降では、技術が進歩して不便が解消されていくがゆえに益が無くなっていく状況を書いていきたいと思います。